田中裕明ノート(1)

句集を好んで読み出すきっかけとなったのは、町の図書館で借りて読んだ田中裕明の『夜の客人』でした。

三十歳を過ぎるまで句集という存在を意識したことがなかったので、今こんなにはまって読んでいるのが、自分自身の事ながら不思議です。

田中裕明は以来ずっと好きな俳人で、『田中裕明全句集』も繰り返し読んでいるのですが、読みながら考えたことを書き残しておこうと思います。

 

今回は『夜の客人』から、夏の句をちょっとずつ読んでいきます。

 

ぼうふらやつくづく我の人嫌ひ

俳句を始める前まで「ぼうふら」は嫌悪の対象で、プランターの受け皿に湧いていたらすぐに水を捨てていました。夏の季語と思うと、今はじっと観察してしまうのですが、そのうねうねした動きが意外と可愛らしい。この句の「我」も「ぼうふら」の様子をじっくりと観察しているのだろうなと思います。「ぼうふらや」という上五の詠嘆によって、「人嫌ひ」もそこまでシリアスなものではなく、一人でいるのが好きな人物なのかなという印象を受けます。自分も人が苦手なところが多少あるので、共感して愛唱している句です。

 

骨と骨つなぐ金属梅雨茸

田中裕明の句には、謎めいた取り合わせの句が多いのですが、この句も骨折の治療ために体内に埋め込まれた金属プレートと「梅雨茸」の取り合わせに意外性があります。固い「金属」と柔らかな「茸」という対比もありますが、骨折した心身の状態と「梅雨」の怠さは近しいものがある気がします。

 

浮いてゐるだけか泳ぎかよくわからぬ

泳いでいる自身のことだとは思うのですが、ぶっきらぼうな言い方が面白い句です。田中裕明の師である波多野爽波の句に〈いろいろな泳ぎ方してプールにひとり〉があります。可笑しさと淋しさが二人の句に通底していて、師弟関係っていいなって思います。

 

ふらんすはあまりにとほしかたつむり

萩原朔太郎の詩「旅上」に〈ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し〉という一節があります。あと、俳句関係で「ふらんす」といえば「ふらんす堂」が思い浮かぶのですが、その「ふらんす堂」から『夜の客人』は出版されています。「かたつむり」がのったりと動く様子と句の平仮名表記を読み下すスピードの遅さがよく合っているなと感心します。日本にいる人間にとってもフランスは遠いのに、「かたつむり」にとっては如何ばかりかと。

 

セピアとは大正のいろ夏館

「セピア」という色を「大正のいろ」とした断定が効いていて、大正時代に撮られた写真の色褪せた感じをイメージさせます。「夏館」という季語を下五にどすんと置いたのも、大正ロマンの洋館を想像させてくれて、良い取り合わせの句です。この句を超える「セピア」の句は、中々ないのではないでしょうか。